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か っ た み ね じ ん じ ゃ
その3 刈田嶺神社(2)

※本コラムは「刈田嶺神社(1)」の続きです。(1)をお読みになってから本コラムをお読み下さい。

 宮地区の刈田嶺神社は神山刈田岳をお祀りする神社として、太古から信仰されていました。では、遠刈田温泉あるいは刈田岳山頂の刈田嶺神社はというと、同じく「刈田嶺神社」と号しながらも、宮地区の刈田嶺神社とは異なる縁起来歴をたどってきた神社なのです。この来歴をお伝えするには少々長い前置きが必要になります。

 奈良時代から平安時代の初頭(8〜9世紀)、深山幽谷で荒行を積むことによって法力を培う「修験道」が興り、各地の山々に修験者が入り込んで道場(入山修行する山のこと)を開きました。蔵王山もまた、その頃に修験の道場となった山で、次のような縁起が伝えられています。

・・・修験の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の叔父・願行(がんぎょう)は、自身も徳の高い修験者であった。願行は、道場にふさわしい山を求めて旅していたが、この地にそびえる雄大な山々を目の当たりにするに及び、ついにこの地を道場とすることを決意し、山頂に吉野金峯山寺蔵王堂の祭神である蔵王大権現を分祀した。そして、この山の麓に僧坊を構えて、修行三昧の日々を過ごした。やがて、多くの修験者が集う一大道場へと発展し、願行の死後、その僧坊の跡地に願行寺と号する大寺院が建立された。願行寺を中心に多くの寺院・僧坊が築かれ、「願行寺四十八坊」と称されるまでになった。願行寺の修験者たちが道場とした山は、願行が蔵王大権現を祀ったことから「蔵王山」と呼ばれるようになった・・・
 
 史実では、願行寺は蔵王修験の要を担う修験寺院で、平安時代に青麻山の東麓に建立されました。平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護を受けるほどの名刹だったのですが、藤原氏滅亡後は徐々に衰退し、戦国時代初頭(15世紀末)に兵火によって焼失してしまいました。かつて「願行寺四十八坊」と称された寺院・僧坊群もほとんどが廃れてしまい、戦国時代末期(16世紀後期)まで存続したのはわずかに三坊だけという有り様でした。

 存続した三坊のひとつ「嶽之坊(だけのぼう)」は、遠刈田温泉に所在する小寺院で、戦国末期には無住(住職が常在しない寺院)となっていました。江戸時代には、「蔵王大権現社」の管理と「蔵王参詣表口(ざおうさんけいおもてぐち。遠刈田温泉から蔵王山頂の蔵王大権現社に通じる参詣路)」の統括という、蔵王山の信仰に関する重要な役割を負い、「金峯山蔵王寺嶽之坊(きんぷせんざおうじだけのぼう)」と号する真言宗の寺院となりましたが、それでもずっと無住のままでした。ところが、江戸時代後期(18世紀末)あたりから庶民の間で名所旧跡や霊場巡りが盛んに行われるようになり、蔵王山に参詣する人もにわかに多くなりました。嶽之坊では、激増する参詣者を取り仕切るために住職が常在するようになりました。こうして始まった「蔵王の御山詣り」ブームは、幕末期から明治〜大正〜昭和初期まで、途切れることなく続いたのです。

 さて、嶽之坊が管理していた蔵王大権現社は、蔵王修験の開祖である願行が吉野より分祀したもので(願行の分祀以降数回の噴火があり、その都度社が焼失しているので「願行がもたらしたそのもの」ではありません)、江戸時代後期には刈田岳山頂に鎮座していました。この蔵王大権現社、ちょっと特徴があります。何かというと、お社が二ヶ所にあったのです。ひとつは先に述べた刈田岳山頂、もうひとつは遠刈田温泉です。蔵王山は積雪が深く、冬季は山頂のお社に参詣することができないので、山麓の遠刈田温泉のお社に祭神を遷座させて参詣の便宜を図るという仕組みです。同じ祭神が季節ごとに遷座を繰り返すので、両者は同一の蔵王大権現社ということになります。ちなみに、遠刈田温泉のお社は、正しくは「蔵王大権現御旅宮(おかりのみや)」と号しました。嶽之坊は、このような蔵王大権現の季節遷座をはじめ、山頂・遠刈田温泉のお社の維持管理、参詣者の仕切りなど一切を担っていたのです。

<つづく>

2009年5月28日更新<Y>

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