蔵王町は、真田幸村公ゆかりの郷です。―真田の郷・蔵王町 PR活動公式ホームページ




 寛永17年(1640)、守信は真田四郎兵衛を名乗り、仙台藩主伊達忠宗(ただむね)に召し出されます。家格は永代召出(めしだし)二番座、待遇は蔵米三十貫文取で、江戸御番組馬上役を命じられました。すなわちこの年、父祖より伝わる真田の姓に復するということと、いっこの武士として世に出るということ、ふたつの悲願が達成されたのです。この悲願達成はひとり守信だけのものでなく、幼少の頃から守信を保護し続けてきた片倉氏・伊達氏にとっても、長年の配慮が実を結んだ瞬間だったことでしょう。あるいは片倉氏・伊達氏にとっては、亡き幸村との約束をようやく果たすことができた瞬間だったのかもしれません。
 ところが守信は、せっかく名乗った真田姓をすぐまた片倉姓に戻してしまいます。守信の後見人格であった片倉重綱が「当家親戚(阿梅を頼ってきた真田姓の者につき、親戚として待遇してきた)であることから片倉姓を名乗らせたい」と藩に願い出て、片倉に改めたのだと伝えられています。
 しかしこれは、実のところは、仙台藩が真田姓を名乗る者を家臣としたことに疑念を抱いた幕府が、藩に対して守信の家系調査を命じてきたことが発端と考えられています。この命令に対して仙台藩側では、かねて作成していた偽造の系図をもって答弁したものの、なお、御上の心中を騒がせて申し訳ないという意味を込めて、守信の姓を片倉に戻したのでしょう。

 仙台藩士となった守信には、仙台城下五橋通(いつつばしどおり)に屋敷が与えられました。この屋敷は推定で表四十間・裏三十間、千二百坪の屋敷地で、仙台藩の規定では知行八十〜百貫文の家臣に与えられる程度の屋敷地であり、三十貫文の守信には分不相応な屋敷地でした。このことから、片倉家養育時代にあてがわれていた食客禄百貫文が伊達家召し抱え後も継続しており、しかもそれが守信の知行に含まれると見なされていたことが読み取れます。

仙台城下絵図(部分)
寛文9年(1669)作成の仙台城下町の絵図。片倉仲之丞(守信)宅が見えます。(小西幸雄氏写真提供)

 寛永17年(1640)、守信が仙台藩士となった際の待遇は蔵米三十貫文(三百石)取でした。蔵米取とは、藩直轄領より収納された年貢米(蔵米)から所定の禄高を給する雇用形態です。その後、寛永21年(1644)に蔵米三十貫文を知行(領地あてがい)に直されました。また、この頃領内で総検地が行われて2割の出目となったため、都合、知行高三十六貫文(三百六十石)となりました。
 知行地は、大身藩士の場合は一村全てをあてがわれることもありましたが、多くの場合「A村で○石、B村で△石・・・」というように飛び地であてがわれました。守信の知行地は刈田(かった)郡矢附(やづき)村、同曲竹(まがたけ)村、桃生(ものう)郡倉埣(くらぞね)村の2郡3ヶ村に分散して与えられました。刈田郡は仙台藩の南部、桃生郡は中北部に位置していますが、これは天候不順などで不作となった場合でも、知行地同士が離れていればリスク分散が可能となることからとられた措置と考えられます。
 2郡3ヶ村に配された守信の知行地のうち、主体となったのは刈田郡の知行地でした。これは、北方にあてがわれた桃生郡の領地が後に栗原郡に移され、さらに栗原郡内で何度か細かい領地替えが行われていたのに対して、刈田郡の領地は、守信が最初に拝領して以降、江戸時代を通じて領地替えが行われることなく存続したことからもわかります。中でも矢附村には在郷屋敷を構え、「仙台真田氏本願の地」として代々真田氏の本拠に位置付けていたことが窺えます。









刈田郡 桃生郡 栗原郡
矢附村
@
曲竹村
A
倉埣村
B
一迫刈敷村
C
一迫刈敷村
伊豆野新町
D
一迫八沢村
E
一迫堀口村
F
寛永17
(1640)
真田守信 30貫文
(蔵米)
寛永21
(1644)
片倉守信 36貫文 貫文高
不明
貫文高
不明
貫文高
不明
延宝3
(1675)
片倉辰信 38貫
195文
貫文高
不明
20貫
195文加増
貫文高
不明
宝永元
(1704)
片倉辰信 38貫
195文
7貫
64文
15貫
271文
3貫
860文
12貫
寛保3
(1743)
真田信成 35貫文 7貫
64文
12貫
76文
3貫
860文
12貫
寛政4
(1792)
真田信珍 35貫文 7貫
64文
12貫
76文
2貫
916文
12貫 944文
文政11
(1828)
真田幸清 35貫文 7貫
64文
12貫
76文
2貫
916文
46文 11貫
954文
944文
仙台真田氏(宗家)の知行地の変換

 大坂落城の混乱のさ中、片倉重綱に守られて白石に赴き、名を変えてひそかに養育され、やがて仙台藩士となって仙台真田氏の開祖となった守信は、再び真田姓を名乗ることができないまま、寛文10年(1670)に死去しました。仙台真田氏が晴れて真田姓に復することがかなったのは正徳2年(1712)のことでした。真田幸村討死から数え97年、守信が一度は真田姓を名乗りながらも、あえなく片倉姓に戻してから72年の歳月が経過していました。しかしながら、このとき名乗った真田姓は、厳密には真田幸村の家筋としてのものではなく、偽造した系図に従い真田信尹(のぶただ)の家筋に連なるものでした。仙台真田氏が名実ともに「真田幸村の血脈を伝える家柄」と公にすることができたのは、これより約160年を経た明治維新後のこととなります。

片倉守信墓碑 当信寺
真田姉弟の墓碑 阿梅ノ方御位牌

 守信は白石城下の当信寺に葬られました。当信寺は守信の実姉・幸村五女阿梅の菩提寺で、阿梅生前より片倉家の保護を受けていました。寺紋は阿梅生家の紋である「六文銭」を用いています。現在は、守信の墓碑と阿梅の墓標とが仲良く並んで建立されています。


 寛保3年(1743)、仙台真田氏三代真田信成は、自らの領地から三十石余(全て刈田郡曲竹村内)を割いて弟英信(惟信)に与え、分家を立てました。真田分家創立のいきさつは判っていませんが、実際に領地分与が行われたのが信成・英信兄弟の父辰信が没した翌年の享保5年(1720)であることから、辰信の遺言によるものとも考えられます。あるいは辰信は、正徳2年(1712)に真田姓に復帰できたことに続いて、『真田幸村の血脈を絶やさず後世に伝える』という使命を解決する手段を講じようとしたのかもしれません。分家があれば、何らかの事情で宗家の後継が絶えたとしても、分家をもって幸村の血脈を伝えていくことができるわけです。なお寛保3年とは、信成から仙台藩に領地割譲(かつじょう)の申請が出されて許可を得た年です。
 仙台真田氏分家は仙台藩士として召し抱えられましたが、小身につき詳しい記録は残っていません。江戸時代後期の分家当主幸清が宗家の養子となって家督を継いだこともあり、宗家とともに真田幸村の血脈を伝える使命を全うしてきたことが窺えます。


守信年表

年号 西暦 年齢 できごと
慶長 17 1612 1 真田大八誕生。父は真田幸村、母は大谷吉隆(吉継)の娘
慶長 19 1614 3 大坂冬の陣。父幸村、兄大助(幸昌)が参戦。
慶長 20 1615 4 大坂夏の陣。幸村、徳川家康本隊に突撃を敢行し、討死。大助(幸昌)も大坂城内で自刃。
幸村討死の前夜、幸村五女阿梅が仙台藩主伊達政宗の先鋒、片倉重綱のもとに送り届けられる。
大坂落城後、伊達隊は京都に駐屯。阿梅も伊達家の屋敷内にかくまわれる。大八、幸村陪臣西村孫之進・我妻佐渡に護衛されつつ、他の女子たちとともに阿梅に合流
大八、伊達隊にかくまわれて仙台領に入る。阿梅ら女子たちは白石城内で養育される
大八、名を片倉久米介と改め、片倉氏より食客録一千石を賜り、白石城外で養育される
西村孫之進・我妻佐渡は仙台まで大八らに付き従う。その後、西村は他家に出仕、我妻は刈田郡曲竹村に居住
元和 4 1618 7 真田大八、京都にて印地打(石合戦)の石に当って死亡(何者かが流布させた偽情報)
元和 5 1619 9 幸村の遺臣三井景国、片倉重綱より奥州に向うよう勧められる(後、三井氏は片倉家臣となる)
京都所司代、大坂の陣における大坂方浪人に対して『お構いなし』の範例を提示(熊本藩に対する指示)
庵原元鄰、三井とともに江戸に到着、江戸にて伊達家臣となる(庵原氏はもと今川家臣の一族。今川氏滅亡後は一族離散し、それぞれ武田・徳川・織田など諸氏に仕える。元鄰は武田氏に依った庵原氏の末と思われる。武田氏滅亡後は真田氏の与力的な存在となり、大坂落城時からこのときまで、三井景国と協力しつつ幸村の遺族を擁護してきたのではないかと推測される)
元和 6 1620 10 白石城内で養育されていた幸村五女阿梅、片倉重綱の後添えとなる
元和 8 1622 12 幸村兄、真田信之、上田から松城十万石に転封。松城真田氏の祖となる
元和 9 1623 13 庵原元鄰、二百石の領地を拝領す(この領地がどこに与えられたかは不明だが、庵原氏の領地は刈田郡曲竹村に多く、在郷屋敷も同村中に拝領しているので、やはり曲竹村内に与えられたとみるのが妥当と考えられる)
寛永 6 1629 17 この頃、真田大八(片倉久米介)、元服。名を片倉四郎兵衛守信と名乗った。
寛永 11 1634 24 三井景国次男、善久坊を創立
寛永 17 1640 30 守信、真田四郎兵衛守信と名乗り、伊達家臣に召し抱えられる。家格は永代召出二番座、俸禄は蔵米三百石取。
幕府が仙台藩に対して真田守信の身上調査を命じる。守信、藩に上申して姓を片倉に戻す。
正保 1644 34 守信、蔵米取から知行(領地)取に直され、刈田郡矢附村・同曲竹村・栗原郡一迫八沢村・同刈敷村に都合三百石の領地を与えられた。また、矢附村に在郷屋敷を拝領。以後、矢附村は仙台真田氏にとって本貫の地ともいえる縁深い土地となる
明暦 2 1656 46 長男辰信誕生
片倉重綱、白石城下当信寺に寺領五百一文を寄進する
明暦 3 1657 47 守信、公儀使(幕府との対応役。広い知識と教養、特別の訓練と多年の経験が必要とされる)に任命されるも、即日免職となる(表向きの理由は『悪筆』。しかし実際には、守信の身元について幕府側が疑念を払拭していなかったため、守信が公儀使になると藩政の停滞を招くおそれがあったからと推測される)
万治 2 1659 49 片倉重綱、死去
善久坊、法源山清林寺と改号する
万治 3 1660 50 我妻佐渡、死去。墓碑は刈田郡曲竹村に建立
寛文 3 1663 53 守信、武頭に任命される
寛文 9 1669 59 守信、武頭を辞任
寛文 10 1670 60 守信、死去。当信寺に葬られる
守信長男辰信、家督相続
天和 1681 阿梅、死去。当信寺に葬られる。当信寺は阿梅の菩提寺
正徳 2 1712 真田復姓なる(真田姓を名乗るにあたり、将軍家をはばかる必要はないとの藩の内意を受けての復姓)。大坂落城より97年、守信が真田姓から片倉姓に戻してから72年が経過していた
辰信、片倉氏から与えられていた食客録一千石を返還

<目次> <1> <2> <3> <4> <5>


蔵王町は、真田幸村公ゆかりの郷です。―真田の郷・蔵王町 PR活動公式ホームページ

<トップページへ戻る>