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真田幸村公肖像(部分)
仙台真田氏宗家に伝来する真田幸村公の肖像画。同じポーズの肖像画が複数確認されていますが、御当主の真田徹氏曰く「うちの幸村が一番ハンサム!」(真田徹氏所蔵・小西幸雄氏写真提供)

 真田幸村は、真田家当主昌幸の次男として元亀元年(1570)に誕生しました。はじめ源二郎信繁(のぶしげ)と名乗りますが、後に幸村と改めます。天正10年(1582)に主家武田氏が滅亡すると、父昌幸は真田氏の本領を守り抜くため、数々の策を実施、天正13年(1585)には越後の上杉景勝と同盟を結びます。幸村はその人質として越後に送られました。しかし越後での暮らしは長くは続きませんでした。父昌幸が豊臣秀吉と手を結んだため、今度は秀吉の下に人質として出されることになったのです。当時は、人質といってもただ無為に過ごすわけでなく、有能な者であれば相応の役目を与えられるものでした。幸村も、秀吉の近習(お側仕え)に取り立てられました。天正18年(1590)の小田原北条氏攻め、そして文禄元年(1592)の朝鮮出兵などは、父昌幸のもとで参戦しています。

 慶長5年(1600)、幸村は父昌幸とともに西軍につき、関ヶ原の合戦に向う途中の徳川秀忠軍を上田城にて足止めします。関ヶ原の合戦そのものは東軍の勝利に帰したため、昌幸・幸村父子は敗軍の将となり、所領は没収され、紀州九度山(くどやま)に配流されます。この九度山蟄居(ちっきょ)の期間は14年にも及びました。

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣において、幸村は豊臣秀頼の誘いに応じ、配流先の九度山を脱出して大坂方の武将となり、大坂城総構(そうがまえ)の弱点ともいえる南方の低平地に出丸『真田丸』を築いて勇戦しました。しかしこの戦は程なくして両軍和睦となります。

 翌慶長20年(1615)、冬の陣の和睦が決裂、大坂夏の陣が起こります。このときは大阪城の堀が全て埋められて裸城の状態になっていたことから、大坂方も野戦に打って出ました。幸村も手勢を率いて奮戦し、5月6日の道明寺口の戦いでは伊達政宗隊の先鋒、片倉重綱隊に痛撃を与え、伊達隊全隊を後退させました。しかし、もとより兵力の差はいかんともし難く、明くる5月7日には、大坂方全軍をもって敵方最重要人物である徳川家康・秀忠を直接討つべく、総突撃をしかけました。幸村も家康の首をねらって突撃を敢行。家康本陣の前軍・松平忠直隊を撃破、その混乱に乗じて家康本陣にまで押しかかりました。あまりの勢いに家康本陣も大混乱に陥り、総大将である家康本人すらも、わずか数名の家臣に守られながら三里あまりも退却させられたと伝えられています。しかし、数度に及ぶ突撃に幸村も疲れ果て、遂に最後を迎えました。その戦ぶりは、敵味方を問わず多くの将兵の賞賛するところとなりました。後日、徳川方の大名島津家久は、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由・・・」と、幸村に対する惜しみない賞賛の辞を送りました。

※幸村の誕生年は通説では永禄10年(1567)となっていますが、本文では仙台真田氏宗家伝来の系譜に基づき元亀元年(1570)としました。
※幸村は架空の名前であり、存命中は信繁と称したという説がありますが、本項においては存命中に幸村と改名した説を採りました。

真田幸村公所用(死持)六文銭旗  真田幸村公所用(死持)采配
真田幸村公所用具足(いずれも真田徹氏所蔵・小西幸雄氏写真提供)

真田幸村年表

年号 西暦 年齢 できごと
元亀 1570 1 幸村誕生。父は真田昌幸(当時は武藤氏を名乗る)(仙台真田氏に伝来する系図による。通説では永禄10年・1567誕生)
天正 2 1574 5 幸村祖父、幸隆死去。伯父信輝が家督相続
天正 3 1575 6 長篠の合戦。真田信輝・昌輝死去。
父昌幸が真田氏の家督相続
天正 10 1582 13 武田氏滅亡
本能寺の変
天正 13 1585 16 昌幸、上杉景勝に服属。幸村、人質として上杉氏のもとに送られる
昌幸、上田城に籠り、徳川軍を撃退(第一次上田合戦)。
天正 17 1589 20 幸村、豊臣秀吉に出仕(仙台真田氏に伝わる経緯。通説では人質として秀吉のもとに送られたとされる。また、通説ではその時期も不詳)
天正 18 1590 21 小田原の陣。幸村初陣
文禄 3 1594 25 幸村、従五位下左衛門佐(じゅごいのげ さえもんのすけ)に叙任される
慶長 3 1598 29 豊臣秀吉、死去
慶長 5 1600 31 徳川家康、上杉氏攻略戦を発令。その隙に大坂方蜂起。幸村は父昌幸に従い大坂方につき、徳川秀忠軍三万八千を上田城にて足留めす(第二次上田合戦)
関ヶ原の合戦。大坂方、1日にして敗退
幸村、父昌幸とともに紀州九度山に配流となる
慶長 6 1601 32 幸村長男大助(幸昌)誕生
慶長 8 1603 34 徳川家康、征夷大将軍に叙任される(江戸幕府開幕)
慶長 9 1604 35 幸村三女阿梅誕生
慶長 16 1611 42 昌幸、配流先の紀州九度山にて死去
慶長 17 1612 43 幸村、入道して好白と号する
幸村次男大八(のちの片倉守信)誕生
慶長 19 1614 45 豊臣方からの参戦依頼を受け、配流先の紀州九度山を脱出し、大坂入城を果たす。
大坂冬の陣。幸村、開戦前の軍議で野戦を主張するも採用されず籠城戦となる。幸村は大坂城の郭外に『真田丸』を築いて勇戦。
両軍和睦。家康、和睦条件を楯に大坂城の堀を全て埋め立てる。
慶長 20 1615 46 大坂夏の陣。幸村、徳川家康本隊に突撃を敢行、家康を討ち取る寸前まで追い詰めるも力尽きて討死
大助(幸昌)、大坂城内で豊臣秀頼・淀殿とともに自害
幸村討死の前夜、仙台藩主伊達政宗隊の先鋒、片倉重綱のもとに幸村三女阿梅が送り届けられる

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