どきたんドットコム歴史コラム>その2 刈田嶺神社(1)


か っ た み ね じ ん じ ゃ
その2 刈田嶺神社(2)

 「蔵王町には、宮地区と遠刈田温泉、そして蔵王連峰刈田岳山頂と、計3つの刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)があるが、これはいったいどういうことなのか?」というご質問は、もしかすると私が蔵王町の文化財保護担当者となって以来、最も多くお答えした質問かもしれません。それほど皆様が不思議に思われることなのでしょう。

 実は、ひとつの町の中に複数の同名神社があるということは、さほど珍しいことではありません。わが町の中でも「古峰神社」「愛宕神社」などが複数所在しています。しかし、そうしたものの多くは、例えば古峰神社であれば「火伏せの神様」であるなど、生活に密着したご利益のある神様を分祀(ぶんし)してきたものであることが多いようです。その一方で刈田嶺神社は、その名前が示すとおりこの刈田の地にゆかりの神社ですから、わざわざ分祀する必要は薄いと思われます。

 刈田嶺神社の歴史は古く、歴史にその名が登場するのは奈良時代(およそ1250年前)のことです。朝廷によって刈田嶺の神様に神戸(神社の支配下に置かれた人民と、彼らが耕す農地のこと)を賜ったという記述が認められます。当時、火山活動が「神威」と信じられていたため、刈田岳に何らかの火山活動が認められたことから、これを鎮めるための配慮だったのでしょう。また、この地域が柴田郡から分離して刈田郡となったのも養老5(721)年のことで、当時から刈田岳は、郡名に採用されるほどのランドマークだったことが伺えます。

 当時、刈田嶺の神様を祀る社=刈田嶺神社はどこにあったかというと、蔵王連峰の東に位置する青麻山(あおそやま)の山頂にありました。青麻山は東北地方における最古級の火山のひとつなのだそうで、荒ぶる神と考えられるほどに火山活動が活発だった当時の刈田嶺に恒久的な社を築くことは容易でなく、むしろ刈田嶺を望むことができ、安定している青麻山に社を築いたほうが都合よかったのでしょう。また、なによりも、「神山」と崇める刈田嶺に足を踏み入れることは神を冒涜する行為とされたことから、嶺の神を崇めるための社を刈田嶺そのものに築くことはありえなかったのだ、とも考えられています。

 さて、当初は青麻山頂に鎮座していた刈田嶺神社も、時代を経るに従っていつしか寂びれたため、平安時代初頭(およそ1180年前)には、より人里に近くて便利な青麻山東麓のに遷座し、さらに戦国時代中期(およそ500年前)には笹谷街道沿線に遷されました。この頃にはすでに刈田郡総鎮守とされていたようで、郡内随一の由緒ある神社が鎮座しているがゆえに、
宮地区の「刈田嶺神社」
いつしかこの村は「宮村」と呼ばれるようになったのだと伝えられています。戦国後期に荒廃してしまいますが、江戸時代になると白石城主片倉家の庇護を受け、地域住民の信仰の要として崇敬されました。

 これが、現在、蔵王町宮字馬場の地に鎮座する「刈田嶺神社」の沿革です。刈田郡という地域の名称の由来となった神山刈田嶺、それを崇めまつるという使命を全うしつづけて現在に至る名社、それが宮地区に鎮座する刈田嶺神社なのです。

※刈田岳山頂の刈田嶺神社は宮城県刈田郡七ヶ宿町の町域に所在しております。本文中で「蔵王町に所在・・・」と記述しておりますが、これは質問される方々の表現をそのまま記していることによって生じるものであります。現在定まっている町境に対する異議・異論を旨とするものではありませんので、ご理解願います。

<つづく>

2009年5月3日更新<Y>

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