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に  し  う  ら  B   い  せ  き


青麻山を間近に望む松川のほとりに営まれた西浦B遺跡(写真中央で発掘調査をしています)

 
  竪穴住居跡
中央に炉がある円形の住居跡です。
 
  竪穴住居の炉跡
石で周囲を囲み、中央に土器を据えています。
 
掘立柱建物跡
七角形や長方形の建物が繰り返し建てられました。
貯蔵穴(フラスコ状土坑)
直径が1mほどの穴で、底の方が広く掘られています。
出土した石器
材料になっっている石はほとんどが山形県産で、地元産はごく少数です。遠く新潟県から運ばれてきた黒耀石製の矢じりも出土しています。
 西浦B遺跡は、永野地区の松川に沿ってのびる矢附段丘と呼ばれる平らな丘の上にあります。スーパーマーケットの建設に伴って、平成21〜22年に発掘調査が行なわれました。

 調査の結果、竪穴住居跡1軒、掘立柱建物跡23棟、貯蔵穴(ちょぞうけつ)30基などが発見されました。掘立柱建物跡と貯蔵穴はドーナツ状に広がり、中央は広場のようになっていました。貯蔵穴などからは縄文土器や石器が多数出土し、出土した土器の文様から、今から4,500年ほど前(縄文時代後期前葉)の人びとが暮らしていたことが分かりました。

 今から4,500年ほど前の縄文時代、西浦B遺跡のまわりは現在と変わらず蔵王山麓の大自然に囲まれた恵み豊かな土地だったようです。遺跡の北に広がる森にはシカやイノシシ、ノウサギといった動物と、ドングリやトチの実といった木の実などの「森の恵み」がありました。そしてすぐ南には松川が流れ、たくさんの川魚や水辺に集まる鳥たち、秋には川をサカノボルサケやマスなどの「川の恵み」があったのです。でも、縄文時代の人びとは年中食料に恵まれていたわけではありません。彼らは季節ごとのさまざまな自然の恵みを上手に組み合わせて厳しい自然環境を生き抜いたのです。

 西浦の縄文ムラの人びとは、食料の少なくなる冬に備えて、秋に収穫した木の実などを地面に掘った穴の中に蓄えました。縄文人が食料を蓄えた穴の跡は、入口が狭くて、中が広くなっています。理科の実験で使う「フラスコ」のような形をしていることから、考古学者は「フラスコ状土坑(貯蔵穴)」と呼んでいます。

 西浦B遺跡では、貯蔵穴の中に縄文人が蓄えた食料は残っていませんでした。長い年月のあいだに腐ってしまったのかもしれませんし、縄文人がみんな食べてしまったのかもしれません。その代わりに、穴の中からは縄文人が使わなくなって捨てた土器や石器がたくさん発掘されました。このようにして見つかる住居や貯蔵穴の跡、そして土器や石器は、現在の私たちに縄文人の暮らしの様子を知らせてくれる大切な宝物です。

 発掘された土器を詳しく調べたところ、現在の福島県の海沿いや、新潟県の縄文ムラの人々が使っていたのと同じデザインのものが少しだけ混じっていました。また、石器の材料には山形県の最上川あたりで採れる石がたくさん使われていましたし、黒耀石の矢じりのひとつは、なんと西浦の縄文ムラから100kmも離れた新潟県から運ばれてきたものでした。電車も自動車もない時代に、縄文人はいったいどのようにして遠くの石材や、土器のデザインを取り入れていたのでしょう。

 このように西浦の縄文ムラの人々は、私たちの想像をはるかに超えるダイナミックな交流をしながら、ここ蔵王の地に力強く生きていたのです。

貯蔵穴から出土した縄文土器(縄文時代後期前葉)
宮城や福島の縄文ムラの人々が好んで用いたデザインの土器で、縦に長いワラビのような文様が特徴です。
遠くの縄文ムラとの交流を示す土器
新潟の縄文ムラの人々が好んで用いたデザインの土器で、細かい刻み目状、同心円状の文様が特徴です。
   
DATA
所在地 蔵王町大字円田字西浦北
時代 縄文時代後期初頭〜前葉前半(南境式後半/綱取U式、約4500年前)
種類 集落跡
遺構 竪穴住居跡・掘立柱建物跡・炉跡・貯蔵穴など
遺物 縄文土器・石器
見学メモ
スーパーマーケットやホームセンターが並ぶ永野駐在所周辺の県道北側が遺跡です。
現地には説明看板を設置しています(県道沿いの店舗敷地内)。
遺跡の現状は店舗敷地・畑地・宅地です(発掘調査をした場所は店舗敷地になっています)。

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