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み や こ い せ き
都遺跡 地域経営に関わる拠点的施設か?

都遺跡で採集された土器と瓦

 都遺跡は、町の東部に広がる円田盆地の北部、薮川の流れる平沢地区の田園地帯の中にあります。『刈田郡誌』(昭和3年)には「人皇第70代後冷泉天皇第二宮の幽閉せられし地なり。・・・宮殿を造り皇子の居所と定め呼んで都と云う。・・・」との伝承が記されています。一帯では江戸時代頃からたびたび土器や瓦などが出土していたようで、その量の多さからこうした伝承や地名が生まれたのでしょう。

 遺跡のあった場所は、かつては盆地の周囲から望める小高い丘だったと言いますが、昭和37年の薮川築堤工事などで土取り場となり、大規模な削平を受けました。この頃に発見された土器や瓦の一部が保管されています。

 平成15年には、水田を使いやすいものに作り替える「県営ほ場整備事業」に先立って発掘調査を実施しました。調査の結果、丘の上に存在したであろう建物などの遺構は残念ながらほとんどが失われてしまっていることが判明しました。このことは、文字で記録されていない町の歴史を解き明かす上で大変な損失でした。

発見された竪穴住居跡と区画施設
(竪穴住居跡→区画材木塀→区画大溝の順に変遷)
 わずかに削平を免れた丘の周囲では、丘を取り囲むように造られた材木塀(丸太を立て並べた塀)と大溝の跡が発見されました。これらは出土した土器などから、今から約1300年ほど前(7世紀末〜8世紀前半)に造られたことが分かりました。丘の一部では、大型の掘立柱建物跡も確認されました。

 当時、周囲を塀や溝で区画し、内部に掘立柱建物などを配置する施設は、役所や寺院などに限られていました。一般の住居では使用されない瓦が出土していることも、都遺跡に何らかの特別な施設が存在したことを示しています。

 都遺跡の北約800mに位置する十郎田遺跡では、都遺跡に先行する時期(7世紀後半頃)の特殊な集落跡が見つかっています。集落は材木塀で囲まれ、出土した土器などから関東地方あるいは福島県地域から移住してきた人びとが居住していた可能性があります(詳しくは「十郎田遺跡」のページをご覧ください)。

 都遺跡でも、わずかながら関東地方との関連を窺わせる土器が出土しています。十郎田遺跡の集落への人びとの移住と、都遺跡の施設の成立には何らかの関係がありそうです。失われた遺跡を取り戻すことはもう出来ませんが、残された資料の調査・研究が町の歴史解明に果たす役割も大きいことでしょう。

丘を取り囲んでいた材木塀と大溝の跡。丘の中央部は削平され、ほとんど何も残っていませんでした。 削平をまぬがれた丘の一部で見つかった掘立柱建物跡。一辺が1mほどもある大きな柱穴が並んでいます。
昭和31年4月に撮影された空中写真。写真右下の田園地帯の中に白く見える部分が都遺跡の丘です。遺跡の近くを流れている薮川にはまだ堤防がありません(国土地理院撮影、宮城県文化財調査報告書第188集より引用)。

DATA
所在地 蔵王町大字平沢字都
時代 飛鳥〜奈良時代(7世紀末〜8世紀前半)
種類 官衙関連施設か?
遺構 掘立柱建物跡・材木塀跡・大溝跡など
遺物 土師器・瓦など
見学メモ
産直市場「みんな野」の南東約600m、薮川の北岸に接する付近が遺跡です。
遺跡付近の薮川の対岸にある「たっぴら杉」が目印になります。
現地には説明看板を設置しています(「たっぴら杉」の対岸)。
遺跡の現状は水田です(発掘調査をした場所は農業用の水路・道路になっています)。

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